今日は人間の話を

今日は人間の話を。
年の瀬になりました。
今年は震災に始まった怒涛の年です。
しかし、東京の片隅にヌクヌクと住んでいて生活に追われていて、イマイチことの重大さを理解せぬまま今にいたっていることに、つい最近思い知りました。

というのは、YouTubeを見てネットサーフィンをしていた時のことです。
初めは呑気に愛犬家達のワンちゃん動画を見ていたりしていていました。
その後、ペット業界での悪辣なブリーダーによって放棄されたりする痛ましい動物達のTV特番の動画などを見、次に先の震災で飼い主と離れ離れになってしまっている動物の動画にたどり着き、最後に改めて先の震災時の動画にたどり着きました。

東京に住んでいたりすると、メディアだけが情報源です。
ともすると、この震災で日本人の対応の冷静さと忍耐強さを海外メディアで取り上げられたとか、そういった関係のないことばっかり覚えていたりします。
ついでにいうと、余りにも大変な災害だったので、報道する側も少しでも被災地の人の心の和ませるためにと考慮したであろうニュースを流しているのだと思うのです。
例えば、被災地の避難所でに健気な若者たちの取り組みだったり、被災者のためのコミュニティ広場の建設、運用のボランティアのことだとか。
最近はペットブームなだけに、ペット達のことも報道に載る。
福島原発半径20キロ圏内の避難勧告で置き去りにされていたペットと飼い主との再会の報道。
はたまた飼い主と生き別れになったワンちゃんをある大学の獣医学部で引き取って、学生が授業の一貫としてケアをし、里親に無事送り出すまでのリポート。
何でも、保護される前に人間に追い回されたり棒で殴られたような形跡のある犬達も少なくはないらしい。
痛ましい話である。

しかし、問題はここからである。
今まで私はどう思考が流れていたかというと、「痛ましい動物がいる」ということに焦点が当たっている。
震災で孤児のようになってしまったペット達がいる。
本当はそれだけではなくって、人間も大変な目にあってしまっている。
これが何時の間にか自分の中から抜け落ちてしまっていたことに気づいたのである。

人間は慣れてしまう動物である。

そして現実から逃避する傾向をもっている。

私は例外でなく不景気の現状に今悩み、ペットに感情移入することで現実から逃避をしている。

震災を免れているにもかかわらず、逃避をしていて現実を正確にとらえられていないのだ。

ペットの里親探しの話を正確に捉えるのだとしたら、人間がやむにやまれずペットを手放したりするときに、やはり飼い主が悔いて辛いだろうから、もし単に放逐されている動物を保護したとしても、飼い主のその気持ちを人間が察してあげて、代わりに飼ってくれる里親を探しているのだ。
もちろん、いい加減な飼い主は大いに責められ糾弾されなければならない。
しかし、先の震災をこういった一般的な事項と並列に考えてはいけなかった。
まずは人間ありきなのだ。

この手の無神経さと現実感のなさというものは、頭でっかちになるとよくありがちである。
かくいう私は去年働いていた職場でそれを痛烈に感じて反発していたものだ。
その会社は環境の調査コンサルティングの会社で、そこでの非正規雇用の人間は、待遇も扱いもテキトーで事業主のようなものであった。
その職場でたまたま見た資料で「動物のために安全な道を作る」とかいうものを見つけ、「この会社は動物とか虫には優しくて、人間には優しくできないのか」と思っていたものである。
また、その会社は地方自治体から環境に関する住民の意識調査に関するアンケートの作成とその集計の仕事を請け負っていて、私はその回答のデータ入力をやったが、素人にでもわかるほど出来の悪い、分かりにくいアンケートだった。
しかも昔似たような案件で使ったのを無理やり焼き直したものであったらしい。
更に言えば調査地をロクに調べもしないでそのまま使ったものであったらしく、的を大きく外れたアンケートであった。
アンケートの回答にもその旨が指摘されていて笑えるものだった。
この人たち、一応大学院とか出ているらしいのにねぇとか笑っていたものでした。
まるで現実感がないんだから。

そんなことを言っておきながら、事実、今、自分の逃避傾向について考える。
最近流行りのエコもなにもかも、基本は人間の為です。
次世代の人間に対する心遣いです。
人間が人間を本当に気使えるような自分になりたいと思い、また社会でもそうあって欲しいと思いました。

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